ツレズレ日記

日々思ったことを書いていきます。

18年飼っていた猫が死んだ

飼っていた猫が死んでしまった。ペットを飼っている人なら誰でも経験しなければならないことではある。死んでしまった悲しさというのはもちろんあるのだけど、命あるものは必ず死ぬという事実を思い知らされたつらさというものもあった。つまり自分自身はもちろん自分の親しい人もいずれ弱って死んでいくということだ。そんなことはもちろんわかりきっていることである。

 

老後はどうなるのだろうと漠然と考えたりすることはあった。だけど今回改めて思い知らされた感じがある。なんとなく心が不安定になってしまった。世の中もっと辛い思いや大変な思いをしている人がいるのは承知だけど親しい人がいつか死ぬということが恐ろしいと感じている。そんな状況で毎日またウィスキーを飲むようになってしまった。つくづく心が弱いと自分でも思うけど人間とはそういう生き物なのかもしれない。

 

現在地球上に生きているすべての人間はいつか死ぬという立場なのだから、僕一人が泣いたりわめいたりしても仕方ない。残りの人生を自分なりに楽しんで生きるより仕方ない。

アルコールはやはり生きる理由

去年の12月から3ヶ月ほどアルコールを一切飲まなかった。飲みたいという衝動がわかなくなった。このまま一生飲まなくてもいいかなという気分だった。それまでは毎日のように飲んでいたので自分でもどうしてこんなに飲みたい衝動がなくなったか不思議だった。推測すると職場でのストレスが激減したことが原因と思われる。このまま健康のために一生飲まないのもありかなと考えていた。

 

飲みたい衝動がないのに無理に飲む必要はない。だけどこのままアルコールと一生縁を切ってしまうのは寂しいという気持ちもあった。そういう気持ちこそアルコールを飲みたいという衝動なのかもしれないけど、1ヶ月に1回くらいなら気持ちをリフレッシュするために飲むかと思い久しぶりに飲んだ。久しぶりに酔うとやはり気持ちよかった。気持ちがリセットされるような感覚だった。

 

そうなるともっと飲んでもいいかなという気持ちになってしまった。週に1回飲もうかなという気分になった。冷静に考えれば社会も人生もあまり明るい要素がない。希望は最後まで捨てないでおこう思うが世の中は暗いことが多い。ストレスは少なくなっても週に1回は強制的に明るい陽気な気分になるのも悪くない。やはり僕はアルコールからは死ぬまで逃れられないようだ。

 

 

人が死なないと問題にならない

世の中には様々な問題や事件があるが改善しようと思えばできるのに改善されないことは多い。たとえば学校のいじめ問題がある。基本的には人が死なないと問題とならない。もっと言うと死んでも問題を隠滅しようという動きが起こる。死んでも問題にしないようにするくらいだから死なない限り問題にはならない。他にも過労死問題がある。人が死んでようやく問題化されるがそうでなければ問題とならない。

 

これもたとえ人が死んでも企業に責任はなかったと言い出すこともある。人が死ななければ何も問題とならない。人が死なないと問題化さえできない、もっと言えば問題とさえならない可能性があるということが日本社会の構造的問題という気がする。組体操で毎年骨折する生徒がでているのにやめないとかも理解できない。骨折するリスクを負ってもまですることとは思えない。死人がでていないからかもしれない。

 

死人がでてさえ変わらないものとしては交通事故がある。交通事故で毎年大勢が死んでも対策が手ぬるいのはどうしてだろうか。時速50キロ以上走れない車しか作ってはいけないように法律を変えるとか飲酒運転したらすぐ免停とかにすれば事故は激減するのではないか。もう原爆で殺された人より交通事故で死んだ人が多くなってもなかなか現実は変わらない。

 

人が死なないと問題提起さえできず、多勢死んでも何も変わらないかもしれない人間社会。何かを変えようというのはあきらめて流されて生きるしかないのだろうか。

 

 

他人から攻撃されたくない

今まで生きてきてずいぶん他人から攻撃されてきた。自分が悪かったことも多かったけど理不尽な攻撃というものも多かった。そういった経験から学ぶことも色々あったし成長出来た部分も少なからずある。でも今はもう成長とかどうでもいいから他人から攻撃されたくない。自分が正しかろうが間違っていようがどうでもいいからとにかく他人から攻撃されたくない。

 

とにかく不快になりたくないのだ。さらに言えば他人を攻撃したくもない。しかし立場的に他人を注意したり叱ったりしなければならない時もある。そういった事態を避けたいのだけど働いていたらそうもいってられない。攻撃されたくもないし攻撃したくもない僕には労働というものが元々向いていないのだろう。向いていないことをしているわけだから当然いろいろ無理がでてくる。

 

自分には読書と散歩と思索の日々が合っている。他人と憎みあったり喧嘩したりという日々はもう送りたくない。また他人の顔色をうかがったり他人の言動にイライラするのを我慢するような生活もしたくない。考えれば考えるほど自分にはセミリタイアしかない。10代の頃からわかっていたことではあった。あと6年ほど働いたら週3日勤務を実現したい。

zozo前澤社長の月旅行を応援しているけど厳しくなってきたらしい

先日、前澤社長の月旅行計画はロマンを感じるしワクワクするので頑張って欲しいと書いた。しかしどうも色々きな臭いことがzozoで起こっていて月旅行が危うくなっているらしい。本業が危うくなって月旅行に悪影響がでているというより、月旅行のせいで本業に悪影響がでているようなのだ。月旅行に行くために宇宙船に乗せてもらうには1億か2億円くらい払えばいいと僕は思っていた。

 

もちろん1億円や2億円というのはとてつもない大金である。それでもたった1枚の絵画に123億円払った前澤社長からすれば特に痛い金額ではないだろう。しかし月旅行に行くのにはなんでも250億円必要らしい。250億円って・・・と思わず絶句してしまった。さすがの前澤社長も250億円は簡単にだせる金額ではないと思われる。実際に250億円を捻出するためにZOZOに自社株買いをさせるために銀行から借り入れをして自己資本比率が大幅に低下するなどしているとのことだ。

 

正直250億円も払ってまで月に行く必要があるのかと言われると疑問も感じてしまう。でもそこに山にあるから登るように、そこに月があるから行くのだろう。そういった衝動や欲求は理屈でないから損得ではないのだ。ここまで話を進めたならどんな困難があろうとも月旅行を実現してほしい。予定では4年後らしいが4年後を楽しみにしている。

河野景子さんの本を読んでみたい

昔から暴露本とか告白本とか読みたいと思う人間だった。最近だと貴乃花と離婚した河野景子さんの「こころの真実 23年のすべて」を読みたくてしかたなかった。貴乃花相撲協会との強気のケンカ、からの突然の相撲協会の引退、離婚など常軌を逸した行動が興味深かった。だけどお金をだして読むのは少し違うかなという感覚がある。お金がおしいというのではなくてお金を出して暴露本を読んではいけないような気持ちだ。

 

だいたいこういう本は内容も薄いことが多いので立ち読みでサーっと読んですましている。しかしなぜか河野景子さんの本は僕が利用する大型書店には並ばない。どうやらこのまま読まずに一生を終えることになりそうだ。他には小保方さんの「あの日」という告白本も読まないままだった。売れていて書店に並ばないのかそんなに部数がでてないのかとにかく見かけなかった。

 

過去に覚えている暴露本は清水富美加の「全部言っちゃうね」やチェッカーズのメンバーがだしたフミヤの悪口の暴露本、中山秀征の元相方が書いた暴露本といった感じだ。全部立ち読みですましたけど思ったほど読んでいないな。それにしてもなぜ暴露本に惹かれるのだろうか。読んでみるとたいしたことが書いていないことが多いのになぜか読みたくなってしまう。なにかとてつもないことが書いてあるかもとつい期待してしまうのだろうか。

100億円もする絵の価値はどうやって上がっていったのか

ピカソとかゴッホとか何億円、何十億円もする絵画が存在する。それらは最初からそんなに価値があったわけではないだろう。最初は千円でも欲しい人はいなかったかもしれない。実際ゴッホは生きているときは全く絵が売れず貧乏のまま死んだらしい。死んでから絵が評価され価値が高騰していった。しかしなんのきっかけで何がどうなったらそんなに価値が高まるのか不思議でならない。

 

絵画なんてたとえ1万円だったとしてもけっこう高いと感じる。もし10万円なんて言われたらどれだけ好きな絵だったしてもとても買えないだろう。世の中の大半の人間はそんな感じではないだろうか。レオナルドダビンチとか歴史的にも価値があるものが値段が上がるのは何となく理解できる。現代人が描いた絵がどうしてそんなに価値がでるのかよくわからない。

 

1億円と言われるから1億円の価値があるとしか思えない。正直絵画の価値はわからないが金銭的な価値があるからほしいと思う人が多いのではないか。ZOZOの前澤社長が123億円でバスキアの絵を買ったが千円で売ってたらほしいと思わなかったような気がする。高い絵画だからほしいのだ。それにしてもなぜ120億円でなくて123億円なのだろうか。

 

どうせならキリのいいところで売ってくれたらいいのにと思う。でも端数でも3億円もするのだからすごい。3億円の絵画だったとしても相当なものだ。絵画にどうしてそんなにお金を払う人がいるのか僕にとっては永遠の謎だ。